FacebookのSympathize、同情は上から目線に感じる
本日のGunosy朝刊で配信されてきた、下記のニュース記事。Sympathize(同情)については、ちょっと考えさせられるものがありました。
Facebook、悲しい話題には「いいね!」に代わる「Sympathize(同情)」を準備中
同じ経験をしていないと気持ちはわからない
「Like! / いいね!」ボタンといえばFacebook を象徴する機能のひとつですが、明るくない話題についても「いいね!」は如何なものか、共感を伝えるものと分かってはいても、「ひどい目に遭って良かったね!」と言っているようで気が引ける、という議論は言語を問わず続いてきました。
この話に「いいね!」はオカシイよなっていうのは、たまにありますよね。自分のマイナスの出来事に対する投稿に対して「いいね!」が押されていて、「いや、良くねぇよ!」って、PCに向かって突っ込んだ経験もあります。
Facebook は、話題に応じて「Like (いいね)」の代わりをする「Sympathize (同情、共感)」ボタンを開発していることを明らかにしました。
う~ん、この辺はなかなか難しいな~と思います。
私は「同情」っていうものが、なんか上から目線に感じるのです。不幸な人に対して、不幸じゃない人が「可哀そうだね」っていうのは、ちょっと嫌な感じがするんですよね。見下ろしているように感じてしまう。
自分が同じことを経験しているのなら、同情してもよいのですが、似たような経験をしていない場合は、その人の気持ちはわからない。同情っていうのは、簡単にできるものではないと思います。
それに、「同情」っていうボタンをポチッと押して終わりというのも、なんかな~という気がします。それは、いったい何の行為になるんだろうって、ちょっと疑問に感じてしまいます。
★★★
最終的に見送りになるという可能性もあるということですし、採用されたとしても、自分が活用するかしないかの問題です。今回は、同情という言葉についての考え方について書きたいと思った次第です。